【拒食症・不登校克服】子どもが動き出すときの親の在り方
ごきげんよう。
ご覧くださり、ありがとうございます。
不登校や子どもの拒食症。
逃げるのでも闘うのでもなく、それらを価値あるものに。
渡辺貴子です。
お母さんは子どもの心に光を灯す存在
長女の拒食症克服の過程、克服してからの10年。
次女の不登校を乗り越える過程、そして今に至るまで。
彼女たちと間近で過ごしていて、肌で感じるエネルギーがあります。
やりたいこと
やってみたいこと
まず、やってみる!!!
これで、生きている。
自分を生きることが他者を幸せにすることにつながっていることを、この子たちはいつの間にか会得したんだな…と彼女たちをみていて眩しくなります。
もちろん拒食症や不登校の真っ只中は、そのようなエネルギーはありませんでした。
真っ暗闇の冷たい土の中に小さく頑なに眠る種子のような時期。
土にいた種子が、程よいバランスの〈土・水・温度〉に見守られる時期。
その期間を経て…
少しずつ動き出す…。
今日は、この少しずつ動きだすときの大事なことをお伝えしたいと思います。
やりすぎない!いい塩梅が大事
動き出すといっても
すぐに、次々と葉が開きグングン伸びるわけではない。
地表にヒョコッと顔を出したときに、喜び勇んでホースで大量の水、山盛りの肥料、真夏の日光をガンガンと与えたらどうなるだろう。
「やっと出てきた、早く早く!」
「大きくなって早く花を咲かせて!」
子葉にとって
ギラギラとした真夏のような日差しはキツい
水やりすぎは根腐れを起こす
新芽にホースの勢いじゃ流されちゃう
肥料過多は根っこにダメージで枯れてしまう
光を目指して勇気を持って地表に頭をだしても、育てる側の過剰な善意が負荷になってしまう。
だから、
いい塩梅(あんばい)というのが大事なんです。
小学校の理科の植物で学習した知識のように、親の子どもたちへの関わり方にも必要な知識があります。
そして植物の知識を得たとしても、育てる地域や環境によってその土地に合う勘や知恵が必要になるでしょう。
子育ても同じじゃないかな。
子どもの特徴、家族や歴史によって、ほどよい塩梅は異なるでしょう。
人は一人一人ちがうのだから。
家族は一つ一つちがうのだから。
それでも、最低限の知識は重要です。
コミュニケーションの知識は重要なんです。
そして、知識を実践しながら観察することが重要なんです。
親子のいい塩梅を見つけていくのが
親子のコミュニケーションなのだと私は思います。
だからね、お互いに言い過ぎちゃうことも、胸につかえて言えなくなることも、喧嘩することも、ぶつかり合うのことも当たり前にあると思うんです。
いい塩梅をさがしているのだから。
子育ての醍醐味ですね。
それってね
親が、自我を持った子どもと一人格として向き合う尊い時間だから。
親子がお互いの距離感を学ぶ時間でもある。
乗り越えるモノがあったとき
そのチャレンジを持っているのは親なのか、子どもなのか?
光に向かって成長しようとしているのは、だれなのか?
急がなくても大丈夫!いい塩梅が大事
夏の間に成長させなきゃ!
花、咲かせなきゃ!
秋までに果実を!
子どもの未来に親が焦りすぎて
親側の思いや都合が爆発する。
すると
子どものチャレンジを奪ってしまう。
寄り添うことを忘れてしまう。
先を見すぎて不安になり、今を見失ってしまう。
大切な芽吹いたいのちは目の前にあるのに…。
未来への不安ではなく、今この瞬間に寄り添う
暗い土の中から出てきた今
目の前の芽吹いている新芽はどんな思いで世界を見ているだろう。
いま、目のまえにいるお子様を、ただそのままに見てください。
一所懸命に生きている息遣いを聴いてください。
自分たち(親)の期待や世間に合わせた基準を脇に置いて、お子様の「今この瞬間」とともにいることを大切にしてください。
親という立場によって、見守るのが難しくなる。
客観的にあるということが難しくなることがあるかもしれない。
親であるという立場や役割が、子どもをピュアに見つめる眼差しを曇らせてしまうことがある。
ついつい手を出したくなるし、せめて口を出したくなる。
お子様からすると
「ママ、ママは何を見ているの?どこを見ているの?」状態になります。
目の前に、光を感じて姿を現した「いのち」があるんです。
その一所懸命に生きている「いのちの存在」を見つめてください。
そうすれば、
見えないものが見え
聞こえない声が聞こえ
感じれないものに触れることができると思います。
その子のいのちの力を信じて、
生きることを見守ることが、子どもを勇気付けることになります。
たとえそれが今はおぼつかなかったとしても
そうあろうとする親の姿は、苦しみの中にいる子どもにとっての一筋の光となります。
最後までお読みいただきありがとうございました