【拒食症克服ストーリー1 】娘を取り巻く環境と拒食症の発症、病院脱走まで | 『公認心理師』渡辺貴子トレーナー

【拒食症克服ストーリー1 】娘を取り巻く環境と拒食症の発症、病院脱走まで

【更新日】2024年03月21日 【公開日】2023年11月27日

拒食症という言葉をご存知ですか。
今は摂食障害という呼び方をされます。

食べたいのに食べられない、少ししか食べられない、食べたものを吐いてしまう。
必要な栄養が食事から摂れなくなり、命にも関わるこわい病気です。

「反抗期かな?」

娘が食事をあまり食べなくなった頃、母親である私はそんな風にのんきに考えてしまいました。
そこから壮絶な親子の葛藤がありました。

ここでは、拒食症を発症した娘を取り巻く環境や、
小学6年生の春に拒食症と診断された娘が治療のために入院した病院を脱走するまでを振り返ります。

目次

  1. 娘を取り巻く環境
    1. 引っ越しの多いくらし
    2. すれ違う夫婦
    3. 祖父との別れ
  2. 娘の変化
    1. 引っ越しで現れた前向きな変化
    2. 祖父を失った悲しみと孤独なお祈り
    3. 笑わない写真
    4. 痩せすぎによる痣
  3. 診断と病院での治療
    1. 受診のきっかけ
    2. はじめて見えてきた「拒食」の実態
    3. 専門医への違和感
    4. 葛藤する母娘
  4. 入院治療と娘の抵抗
    1. 入院の決定
    2. 薄暗い病室
    3. 有無を言わさぬ治療
  5. 病院との決別
    1. げっそりした娘
    2. 病院にはいられない
    3. 医師の言葉
  6. 自主退院してから
    1. 頑張ろうとするほど・・・
    2. ついに登校できなくなる
    3. ますます食べなくなっていく

1. 娘を取り巻く環境

(1)引っ越しの多いくらし

専業主婦だったわたしは、2人の娘を「無条件の愛」で育てました。

夫は転勤族で、わたしたち家族は、夫とともに引越しを繰り返していました。
わたしは妻として、母親として、地域や社宅などの人間関係が変わるたびに調整しながら、家族を支えてきました。

2人の娘はそれぞれ2つの幼稚園3つの小学校に通いました。
せっかくお友達ができても、2年もすればお別れが待っている。
子どもたちは慣れ親しんだ環境との別れと、新しい環境への緊張を、幼い頃から繰り返していました。

当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
幼少期を振り返る
娘の特性と度重なる引っ越し

(2)すれ違う夫婦

繰り返す引っ越しと新しい環境。
転勤先の仕事に追われる夫と、母としての日常に追われるわたし。
娘が拒食症を発症する前、わたしたち夫婦はうまくいっていませんでした。

日中は、子どもたちと全力で楽しんで過ごしました。
たぶん、優しいお母さんだったと思います。

けれども…

娘はきっと、とっても寂しい思いをしたはずです。
そして、とっても不安だったんじゃないかなって思います。

「わたしが小さい頃、パパとママはすごく仲が良かったよね。パパもママも、笑ってた。
 だけどいつからか、とっても嘘くさく見えたんだ…。
 笑ってるんだけど、すごく嘘っぽかった…。おかしいね」

拒食症の真っ只中にいるときに、ポツリポツリと娘が教えてくれたのでした。

(3)祖父との別れ

拒食症を発症する前の4年生の夏、長女は生まれて初めての別れを経験します。

元気だったわたしの父、娘にとっての祖父が突然亡くなったのです。
夏休みで一緒に過ごし、元気に別れた2日後でした。

そのことを知った娘は、
泣いて
泣いて
泣いて。

未熟なわたしは、娘の悲しみに十分に寄り添うことができませんでした。
彼女は誰にも悲しみや苦しみを吐き出すことができなかった。
どんなに寂しくつらかっただろうと、その頃の彼女を思うと胸が痛くなります。

そして引っ越し以来、彼女は勉強、スポーツ、課外活動にますます力を入れていくようになりました。

わたしはその、頑張っている部分しか見ていませんでした。
その奥にある彼女のつらさを何ひとつ、見ようとしませんでした。

2. 娘の変化

(1)引っ越しで現れた前向きな変化

長女が拒食症の診断を受けたのは、小学校6年生の4月でした。
けれども小学校5年生のときから、それは始まっていたように思います。

わたしたちは、長女が4年生の夏に転勤で引っ越しをします。
引っ越し先は文教地区で、大学や研究施設のある、とても教育熱心な土地でした。
娘はそこで勉強も、スポーツも、委員会活動も、別人のように励むようになったのです。
そしてそこで、着実に成果を上げていきました。

わたしは目を見張りました。
本来のおっとりした長女の個性に、頑張り屋さんが加わり花開いた!
「なんて素敵なんだろう!」
わたしは娘の変化を喜ばしく捉えていました。

当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
2つ目の転校先に優等生に変身

(2)祖父を失った悲しみと孤独なお祈り

引っ越ししてすぐに、祖父が突然亡くなりました。
わたしは父との間に深いわだかまりがあり、どうしても自分の父親…
娘にとっての祖父の死を、悼むことができなかったのです。

娘は亡くなった祖父の写真をいつも持ち歩いていました。
そして、毎晩眠る前に、お祈りをしていました。

「おばあちゃまが幸せでありますように。
 パパとママが仲良く幸せでありますように。
 世界が平和でありますように」

わたしは娘の悲しみに十分に寄り添うことができず、彼女は誰にも悲しみや苦しみを吐き出すことができないまま…
お祈りの儀式は一年以上続けられていました。

当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
大好きな祖父の死と拒食症の足音

(3)笑わない写真

祖父が亡くなった後も、娘は勉強やスポーツに変わらず打ち込んでいました。
そんな5年生の年末、わたしはふと、娘がすごく痩せてきていることに気づいたのです。
でもそのときは、あまり大きな問題とも思っていませんでした。

最近の子はませてるから、ダイエットを意識するのも早いのね。
きっとすぐに辞めるだろう。
お腹がすけば、辞めるだろう。
あれこれ言う方が、かえって逆効果かもしれないな…。

その程度に思っていました。
それよりも活発に活動していることが、わたしには圧倒的に喜ばしく感じていたのです。

今なら、その頃の写真を見れば一目でわかります。
そうです。一枚も笑っている写真がないのです。どの写真も表情がないのです。

なぜ、気づけなかったのだろう。

(4)痩せすぎによる痣

年が明けた5年生の3学期。娘はさらに痩せていきます。
一緒にお風呂に入ると、娘の背骨や尾てい骨のあたりの皮膚が痣になっているのがわかりました。
骨と皮膚がこすれるのでしょう。

もう、写真以外でもはっきりわかるほど、娘は笑わなくなっていました。

「反抗期かな?」
そうです。わたしは「拒食症」という病気を知らなかったのです。

「反抗期でもいいけれど、食べるものは食べさせないと!」
わたしはそう思い、娘が大好きだったパンを焼いたりケーキを焼いたりしました。
けれど娘はそれに手をつけようとはしませんでした。

「なんで食べないの! あんなに大好きだったのに! 食べなさい! 食べないと死んじゃうわよ!」
わたしはそう言いながら、パンを乗せたお皿を娘の顔に押し付けました。
わたしは必死でした。

娘も必死でした。
「食べたくないのよ! いちいち言わないで!」

そして数時間経ってから、
「ママ。作ってくれたのに、ごめんなさい。ちゃんと食べるね」
そう言って、薄く切ったパンを一口食べました。
一口で終わってしまいました。

彼女は、泣いていました。

そして、あの3月11日。東日本大震災が起きます。
震災の映像が、テレビで何度も何度も流れました。

そのときわたしは、とんでもないことが起こっていることに、ようやく気づきます。
彼女の虚ろな目には、テレビの映像は一切映ってないようでした。
彼女の口からか細く出てきた言葉は、「ご飯は何にするの?」だったのです。

すべての意識が食事にしかないようで、わたしはそのとき初めて怖さを感じました。

「何か、おかしい」

しかしそれでもまだ、「拒食症」という言葉すら浮かんではこなかったのです。

3. 診断と病院での治療

(1)受診のきっかけ

6年生に進級し、クラス替えがありました。
彼女が慕っていた担任の先生がそのまま持ち上がりましたが、娘は別のクラスになりました。

「わたしは見捨てられた。選ばれなかった」
そう言って、帰宅するなりワンワンと泣き続けました。

そして4月の初めに行われる身体測定の結果で、わたしは学校に呼び出されることになります。

「お母さん。拒食症ってご存知ですか?
〇〇ちゃんは、体重が少なすぎです。5年生の4月から身長も止まっています。
もしかすると拒食症かもしれません。すぐに、病院にかかって検査してください」

ドクッドクッドクッ…。
心臓の鼓動が激しくなるのを感じました。
何が起きているのかよくわからない状況。先生の声が遠くに聞こえる感じ。

「拒食症」って? 聞いたことはあるけど、どんな病気なの?
テレビで見たことあるけど、よくわからない。
急いで家に帰り、ネットで検索しました。

「何なのこれ」
「何でうちの子がなるの?」
「どうして? 大事に育ててきたのに?」
「何が起きてるの?」
ネットの情報があまりに恐ろしく、どうしても現実味がわかないのです。

「だって、ご飯食べてるし!」
確かに痩せてるけど、それでも食べてる。

クラス替えのショックと体力の衰えで、あっという間に精気をなくしてしまった娘を
かかりつけの病院につれていきました。

「お母さん。お嬢さんはおそらく拒食症です。専門の病院を紹介します。そちらに行ってください」

「ママ。ごめんなさい」
帰り道、娘が泣きながら何度も謝ります。

娘は一所懸命にわたしを見ているのに、わたしの頭の中は、いろんな情報が駆け巡り
わたしの心は彼女とともにはいませんでした。

(2)はじめて見えてきた「拒食」の実態

「本当に拒食症なの?」
「何で、大事に育ててきたのに拒食症になるの?」
「どうして泣きながら謝るんだろう。謝れるなら食べればいいのに!」
「確かに痩せているし、食も細くなっているけど、それでも、食べてる!」
「もしかしたら、本当は拒食症ではないのかもしれない」

家に帰って食事の時間になり、わたしは娘をそっと観察しました。
そしてわたしは、娘のことを何も見ていなかったことに気づきます。

ご飯をポロッとこぼしては、そっとティッシュに包み、
おかずを床にこぼしては手の中にそっと握り締め、最後はゴミ箱に捨てていたのです。

ああ、わたしは何を見ていたのだろう…。
食べたふりをしていたのだ。これが何ヶ月も繰り返されていたのだろうか…。

全く想像もつかない世界に落ちていく気持ちがして、ただただ不安になっていくのを感じました。
けれどこのときは、これから始まる苦しい日々を、まだ本当には想像できてはいませんでした。

そして、わたしたちは、紹介された病院へ行くことになったのです。
多少の困難はあるかもしれないけれど、それでも、「専門の病院へ行けばなんとかなる」そう思い込んでいました。

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受け入れられない事実と混乱の始まり

(3)専門医への違和感

車で40分ほどの距離のところにその病院はありました。
かかりつけの小児科医によれば、市内、県内から拒食症の患者さんが集まってくる専門医だとのことでした。

わたしは期待を込めて、娘と診察室に入りました。
そして医師から、淡々と次のように言われます。

「お母さん。拒食症は治りませんよ。治ったとしても、10年20年かかる病気ですよ」
「お母さん、どんな子育てをしてきたの?」
「なんでこんなになるまで気づかなかったのかなあ」
「県内では、僕が一番拒食症の患者さんを見てきてるからね。まあ、ゆっくりやって行きましょう」

わたしには、なぜか、先生が半笑いをしているように見えました。

そして、わたしは先生に尋ねました。
「先生のところで、拒食症が治った人はいらっしゃるんですか?」

先生は笑いながら答えました。
「いませんね。結局入院になります。先日退院して行った子は、家に帰ってから大暴れしているそうです。
 それから、今入院している子は、治ったように見えるかもしれないけど、ありゃ過食症だな。
 そんな感じですよ。そうやって、ずっと付き合っていくんです」

こんな先生で大丈夫なんだろうか。
こんな先生に大事な娘を見てもらっていいのだろうか。
本当に、ここしかないのだろうか。

でも、ほかにどこへ連れて行ったらいいのか、わたしにはわからなかったのです。
わたしの中の違和感は薄れることはなく、再度、かかりつけの小児科の先生に助けを求めました。

「お母さん。お気持ちはわかりますが、あの先生はいい先生ですよ。
 拒食症は特殊な病気ですし、娘さんはまだ小学生です。
 専門でやってらっしゃるあの先生以外に、思い当たる先生はいらっしゃいません」

違和感を持ちながらも通い続けました。
はじめの頃は2週間ごとに通院していました。
病院からの帰り道は、わたしも娘も、毎回ふさぎ込んでいたように思います。

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「拒食症は治らないよ!」医師に言われて言葉を失う

(4)葛藤する母娘

病院へは学校を早退してから行く日もあれば、病院に行ってから遅刻して登校する日もありました。

その頃の彼女の楽しみは、公園でママと一緒に昼食をとること。
昼食は、いつもコンビニのパンを食べたがりました。
コンビニのパンならカロリー表示がしてあるから安心だし、公園ならママのご飯が避けられたから。

あるとき、川原で並んでパンを食べようとしたとき、
トンビが急降下してきて、娘がひと口かじったパンを奪って飛び去ってしまったことがありました。

娘は大泣きでした。
尋常じゃない泣き方。
「拒食症なのに、パンを取られて泣くの?」
「やっぱり拒食症じゃないんじゃない?」

娘の中では、多くの食べ物がNGになって行く中、コンビニのパンは数少ない許せる食べ物だったのです。
ようやく許可を出せて食べられたものへの、執着だったのかもしれません。
同じパンを、コンビニを何軒も回って手に入れました。

専門医の先生からは、体重が増えていないことを通院のたびに指導されました。

「頑張って食べれば、すぐに体は元どおりになり、今までどおりの生活ができる。
 それがわかっているのに食べられないんだよ」
病院の帰りに、いつもの川原で娘と話をしていたときに、彼女はこんなふうに言いました。

「それに、もし食べて体重が元に戻ったって、そんなの治ったなんて言わないよ!
 だって、わたしは怖くて怖くてたまらないんだから。
 わたしを見張る、もうひとりのわたしが、わたしの中にいるんだから!

 ママ。もし、もうひとりのわたしが出てきたら、わたしを正気に戻してほしい。
 でも、きっと無理だと思うけど…」

そのときの娘は、とっても弱々しく見えて、そして、甘えるようにわたしにぴったりと寄り添っていました。

そして家に帰り、夕食の時間になり、娘はいつものように悲痛な顔になっていきました。

わたしは娘が言っていたとおり、川原での話を思い出すように声をかけてみました。
けれど娘は、先ほどとはまったく別人のようにわたしのほうを見て、
「もう、さっきのわたしじゃないから」と言い出しました。

娘でありながら娘じゃないようで、彼女を怖いと感じた初めての体験でした。

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正解がわからない中で…

4. 入院治療と娘の抵抗

(1)入院の決定

「25kg以下になったら入院だからね。入院が嫌だったら頑張って食べないとね!」
と担当医の先生から言われていました。

4月の終わりに紹介された病院に行ってから、体重が25kgを切るのはあっという間でした。

5月が終わろうとしていても、痩せ細った娘は寒くてたまりません。
長袖のブラウス、セーター、ブレザーを着て、背中にはカイロを当てていました。

「今度こそ、入院だよ」
病院の先生に言われます。
「食べないなら、入院して何とかしなくちゃね!」

入院の話が毎日のように、娘との会話に出てきました。

「入院したくない」
「この家から離れるのは嫌だ」
「入院して無理やり食べさせられたって、治るなんて思わない」
「ママと離れるなんて、嫌だ」
「今まで通ってたって、先生は体重の話しかしない。
わたしの心なんて知ろうとしない。そんな人に治せるなんて思えない」

さらに体重が落ち、23kgになったときに入院が決定になりました。
6月になっていました。

(2)薄暗い病室

入院の日の朝、学校へ行く前の次女に、娘は自分が入院することを告げました。

「待ってるね」
次女は、泣きながら応えていました。

「あんなに〇〇のことを嫌っていたのに、わたしのために泣いてくれるんだ…」
娘は泣いていました。

「そうだよ。みんなあなたのことが大好きなんだよ。
早く良くなって帰ってこなくちゃね。頑張って、良くなろうね」

わたしは、ひとりぼっちで家族と離れ、
入院はおそらく恐怖の連続でしかないと思っている娘の心に、寄り添うことができていたんだろうか。
入院で娘の心が傷つくことをおそれていながら、娘の心を慮ることはしていなかったような気がします。

そう。わたしは、自分の不安でいっぱいでした。
可愛い娘をひとり入院させることが可哀想でたまらない反面、
ここまできてしまったことに、自分への不甲斐なさでいっぱいでした。

入院の荷物を持って娘とふたり病院に入ると、さっそく病棟へ連れて行かれました。
そして案内されたのは、ポータブルトイレ付きの薄暗い個室でした。
病棟の様子は、娘が想像していたそれとは大きく違っていたようでした。

「こんなところで、良くなるなんて、絶対に思えない!!! だまされた!!」

娘は怒り出し、泣き出しました。

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初めての入院

(3)有無を言わさぬ治療

不安と怒りを爆発させる娘。
しかし、そんな娘はそのままに、看護師の方が手早く彼女の腕に点滴の針をさします。

娘は泣きながら、針を抜きます。
先生が娘を説得しながら、再び看護師さんが点滴をさします。
また娘は抜き取ります。

条件を出されました。
点滴をしなければ、お風呂に入れません。
点滴をしなければ、トイレもここでしてください。
部屋から一歩も出てはいけません。

それでも、娘は点滴を拒否し続けました。

点滴に抵抗しているうちに夕食の時間になりました。
当然、夕食を食べません。

娘はわたしに似たのか、とても頑固です。
トイレに行きたいのに、ポータブルトイレで用を足すことは、先生のやり方に屈することだと思っていたようです。

こんなやり方、絶対に認めない!
点滴も嫌。食事も嫌。トイレも嫌。
ママ、わたしはどうしたらいいのぉ!

何時間も葛藤した末に我慢しきれなくなって、娘は泣きながらポータブルトイレで用を足しました。

そして、泣きながら出された食事を「おいしいね」と言いながら食べました。

その日、疲れて娘が眠ったのを見届けて、わたしは家に帰りました。

ああ、明日からどうなるんだろう…。
あの子は大丈夫なんだろうか。
不安しかありませんでした。

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悲痛な叫びと母としての転換点

5. 病院との決別

(1)げっそりした娘

翌日、面会に行くと、娘は一層げっそりとしていました。
「朝から何も食べてないの…。ママ、お腹がすいたよ…」

主治医の先生が、朝一番に来て言ったそうです。
「君は治らないよ。君はアル中患者と一緒だよ。やる気がないなら、治るわけがないんだ」

その言葉は、通院中にも言われた言葉です。
たったひとり、初めて親元から離れ入院している11歳の女の子に、主治医の先生は同じ言葉を繰り返し言ったのでした。

「いいんです。いいんです。彼女が怒るような言葉をワザと言ったんです。気が強いね。反抗的だね。
 点滴は週が明けてからにします。とにかく何か食べさせないとダメだから。
 お母さん、あの子が好きなものでもいいから持って来てやってください」

そして入院しているにもかかわらず、わたしは娘が食べたいというものを探して差し入れました。
娘は…。
小さなベーグルを貪るように食べていました。

まずは栄養を摂らせることが先決。
体重が25kgまで増えないと、まともなコミュニケーションは不可能。
コミュニケーションが不可能なら、心のケアも難しいでしょう。
もう少し体重が安定してから、カウンセリングなり心へのアプローチをしましょう。

医師からはこのように言われていましたが、
栄養の管理すらしてもらえず、娘と病院との信頼関係もなく、これで良い方向へ向かうというのだろうか?
本当にこれしか方法がないのだろうか?
病院への不信感と、どうすることもできないもどかしさに、入院2日目の夜が過ぎていきました。

そして娘は、さらにつらい夜を過ごしていたのです。

(2)病院にはいられない

入院3日目の朝のことでした。
わたしが面会に行くと、正面玄関の外来のシートに娘と主治医の先生が並んで座っていました。

泣きじゃくっています。
ふと足元を見ると、娘は裸足でした。

「あああああ」
何が起きているのか、すぐにはわかりませんでした。

主治医が口を開きました。
「当直が終わって車での帰り道にね、なんか、見たことがあるような女の子がいるなぁと思ってね」

そうです。
娘は病院を脱走したのです。

娘が入院していたのは内科の病棟でした。
土曜日の朝、病棟の看護師さんたちの慌ただしい隙を見て、彼女は病棟を抜け出したのです。

そして、病院から数百メートルのところにあるコンビニエンスストアのゴミ箱のかげに、
隠れるように座り込んでいるところを見つかります。

彼女を見つけたのは当直帰りの主治医の先生でした。
わたしが面会に来るのを、先生とともにそこに座って待っていたのです。

「ママ」
わたしの顔を見るなり娘は泣き出しました。

「ママ、ごめんなさい。ママ、ごめんなさい。
 わたし、もう我慢できなくなっちゃったんだよ…。もう、頑張れなくなっちゃったんだよ…。
 頑張るって言ったのに、もう、できないよ…。ごめんなさい」
そう言って泣くばかり。

主治医の先生が見つけた経緯を教えてくださり、娘とともに一旦病棟の個室へ戻りました。
戻る途中も娘はわたしに謝り続け、そして、「もう家に帰りたい。帰して欲しい」とそればかり。

娘とふたりきりになったとき、娘が淡々と前の晩の先生とのやり取りを教えてくれました。
わたしはその話を聞いて愕然としました。

「本当なの? 本当に、こんなことがあっていいの?」
わたしはそんな思いでした。

そして娘が言うのです。
「もう、これ以上ここの病院にいてもわたしは絶対に良くならない。
 もしもこのまま、栄養を体に入れて体重を増やしたからって、わたしの心が元に戻ることなんて絶対にないんだ。
 ママ、お願い。ここに置いておかないで。わたしを連れて帰って。
 わたしも頑張るから、家で頑張るから、だから、この病院はもうやめて」

そんなことがあれば、病院を抜け出そうと思うのも無理はない。
わたしはそう思いました。
そして湧き上がる怒りを抑え、主治医から直接話を聞こうと思ったのです。

娘に病室で待つように言い、わたしはナースステーションに向かいました。
そしてわたしは見てしまうのです。

主治医が笑いながら、ゴミ箱のかげに隠れている娘のモノマネをしているのを。
そして、それを見て、笑っている看護師の方々を。

怒り、悔しさ、悲しみ、後悔…。
あれは一体何だったんだろう。
今でもあの光景は、わたしの脳裏に焼きついています。

こんなところしか、わたしたちには頼るところがないのか!?
本当にこんなところしか、行くところがないの!?
こんなところに、娘を委ねるの?
そんなの、親として絶対に無理だ!

そう思いました。
そして、自主退院する旨をその場で主治医に伝えました。

主治医はそのとき言いました。
「連れて帰ってもいいけど、きっとまたここへ戻ってきますよ。ほかに見てくれるところなんてないんだから。
 どこの病院に行ったって、病院はみんな連携しているんだから。必ず、ここに戻ってきますよ」

「これでいい」
わたしはそう思いました。
正直、脱走した娘を「すごい!」と思いました。

そして、そのまま自主退院という形で、その日のうちに娘と一緒に家に帰りました。
もう、未練はありませんでした。

わたしは、母親なんだ。
もう、誰かに委ねるのはやめよう。
もう、病院に頼るのはやめよう。
医者が治らないというのなら、そんな前提で関わりをされるなら、
わたしが治ると信じてとことんまで寄り添おう。
わたしは、母親なのだから。

寄り添う意味もわからないままに、
わたしは母親としてやらねばならないことがあることに、ようやく気づいたのでした。

これから、本当の戦いが始まるんだ。

病院からの帰り道。
わたしは、助手席で安心して眠っている娘を見ながら、
母親として、初めて大きな決意とともにそこにいるのを感じました。

そして本当の親子のつらい日々は、ここからのスタートだったように思います。

自主退院から数日後、わたしは退院した病院に電話をしました。
何度かソーシャルワーカーの方と話をしていたので、
もしかしたら彼女に協力を求めることができるのでは…と思ったのです。

ソーシャルワーカーの方は快く面談に応じてくださいました。
そして、臨床心理士の先生も同席してくださったのです。

わたしはお二人を前に、助けを求めました。

これまでの主治医との会話、娘が脱走するに至った経緯。
そして、本当にほかに病院はないのか?
もしあるならばどうか、ほかを紹介してほしい。
どうか助けてください。

母として感じていること、思いを正直に伝えました。

ソーシャルワーカーの方も臨床心理士の先生も、今回の出来事を真摯に受け止めてくださったのです。
そしてなんと、別の病院を紹介してくださったのです。

「ここのように内科ではありません。ご紹介するのは外来の児童精神科の先生です。
 とっても優しい先生です。傷ついた〇〇ちゃんをさらに傷つけることは決してなさらないでしょう。

 ただし、入院となりますと精神科の閉鎖病棟になると思います。
 それでもよろしければ、わたしたちが主治医の先生にお願いして紹介状を書いてもらいます。
 お母さん、本当に申し訳ありませんでした。苦しくつらい思いをさせてしまいました」

このお二人に心から感謝しております。
この方々の力なくしては、実際にはどこの病院に改めてかかればよいのか、それすらわからなかったのですから。

(3)医師の言葉

娘に脱走を決意させた医師の言葉は、娘にとって耐えられないものでした。
そして、母親のわたしにとって信じられないものでした。

病院は病気を治すところ。
病気は医者に治してもらうもの。
わたしはそれまでそう信じていました。

病気に関して、医者の言葉は絶対だと思い込んでいました。
もしかしたら、今でもそれを信じて疑わない方もたくさんいらっしゃるかもしれません。
でも、わたしたちに関してはそうではなかった。

娘が拒食症を発症してから、わたしは医師の言葉や態度から、残念ながら安心を感じたことはありませんでした。
安心以上に、傷つき不安になることの方が多かったのです。
もしかしたら、娘はわたし以上にそう感じていたかもしれません。

この物語を読んでくださっているあなたには、もしかしたら想像がつくかもしれませんね。

言葉だけではありません。声のトーン、視線、態度…。
もちろん、すべての医師がそうではないでしょう。
わたしたちが出会った医師が、たまたまそうだったのだと思います。
けれど、もしも同じように傷つく親子がほかにもたくさんいらっしゃるようならば、
本当に胸が痛く張り裂ける思いがします。

医師の言葉。
権威ある立場のかたの言葉は、わたしたちにとって強い影響力を持つのです。

入院して2日目の夜。主治医が個室にやってきて娘に言ったそうです。

「うちは、精神科の病院じゃないからね。君を縛ることはできないんだよ。
 だから、残念ながら君の手足を無理やり縛って鼻から栄養を入れることはできないんだ。
 だけどね、眠剤で君を眠らせることはできるよ。
 君が眠っているうちに身体に栄養を入れてしまうからね」

いったいどれほどの恐怖だっただろう。
そして次の日の朝、娘は脱走したのです。

患者にとって、患者の家族にとって、権威ある医師の言葉は希望にもなれば絶望にもなります。
小学生の娘は裸足で病院を脱走し、フラフラな身体で見知らぬ街に飛び出したのです。

わたしは娘がそこまで追い込まれていることに、気づくことができませんでした。
それでも、医師といい関係を構築し、少しでも良い治療をして欲しいと望んでいたのです。
ここを離れたら、もう、頼るところはないと思っていたからです。

「ここの病院を出たら、行くところはないですよ。
 あるとすればひとつだけ。大学病院の精神科だけです。

 でもあそこは鍵のかかった閉鎖病棟で、こんな小さな女の子には酷だと思うなあ。
 精神科はね、いろんな患者さんがいるからね。たぶん相当ショックを受けると思うよ。
 それに、この子を拘束することもできるからね。僕は、絶対に、お勧めしませんよ」

どんなに不信感を感じても、それでも頼るところはここしかない。
そして、この頃のわたしの頭は治療のことばかり。
本当に娘の心をわかろうとはしていなかったのかもしれません。

「拒食症は心の病気で、食べることばかりに意識を向けていては良くならない。
 それよりも大切なのは心に寄り添うことでしょ!」
と頭でわかっているつもりになっていました。

けれども実際は、母である自分が娘に寄り添うことよりも、
主治医やチームの臨床心理士の先生が、それをしないことに対して腹が立ち、もどかしく責める気持ちでいっぱいでした。

「あの人たちがもっと娘を大切に扱ってくれれば…」
そんなふうに思っていました。

わたしは母親として、苦しんでいる娘にちっとも寄り添えてなかったのです。
娘はひとりぼっちだったのです。
ひとりで戦っていたのです。

たとえ医師の言葉がどんなであろうと、母親のわたしが絶対の安心感で彼女の心に寄り添うことができていたら、
わたしが優しい眼差しで彼女を包むことができていたら、
彼女の心はひとりぼっちではなかったんじゃないかなって思うのです。

少なくとも、わたしが面会に来るまで、待っていたんじゃないかなって思うのです。

わたし自身も主治医の言葉に傷つき、怯え、絶望を感じました。
そして娘の苦しみは、わたしのそれをはるかに超えていたのです。

娘が本当にわかってほしかった相手は、医師でも臨床心理士でもカウンセラーでもなく母親のわたしだったのです。

たとえ主治医が何を語ったとしても、母親にわかってもらえてさえいれば乗り越えられる。
今ならそう思うのです。

6. 自主退院してから

(1)頑張ろうとするほど・・・

初めての入院は、3日で自主退院という形で終わりました。

「ママ、わたし、頑張るから。頑張って食べて、元気になるから。だから、お家に一緒に連れて帰って」
長女はそう言いました。

「そうだね。一緒に頑張ろうね」
わたしもそれに応えました。

病院からの帰り道、長女は自分の決意を証明するかのように「ミスタードーナツへ行こう!」とわたしを誘いました。

わたしは嬉しくなって、長女とお店に寄りました。
大好きだったドーナツをお皿に乗せ、テーブルにつき彼女は食べ始めました。

「おいしいね…」
けれど、食べるスピードはだんだん落ちていき、すべて食べたものの、
お店を出て車に乗り込んでからはずっとうつむいていました。

家に戻ってからは泣きっぱなしでした。
「病院に入る決意がやっとの思いでできたのに、そこから逃げ出してしまった。
 わたしは弱い人間だ。わたしはダメな人間だ」

その頃のわたしは、泣き出す娘の背中をたださすってやることしかできませんでした。
「そんなことないよ」
というのが精一杯だったのです。

わたしの頭の中は、「これからどうしていこうか」ということでいっぱいでした。

3日間の入院生活は、娘の気力、体力、自尊心をものすごい勢いで奪っていきました。
3日間で体重もかなり落ちてしまっていました。
そして長女の様子は、入院前とは明らかに違っていました。

拒食症に取り込まれた娘…という表現が近いような気がします。

「頑張るから」って言っていたのに…。

あの頃のわたしは「頑張る」って言葉が好きだったなあと、今、思います。
娘が拒食症になって、どれだけ「頑張る」って言ってきただろう。言わせてきただろう。
もしかしたら、拒食症になるまでも、ずっとずっと言い続けていたのかもしれません。

「お嬢さんは、あなたの心の奴隷状態です」
あるカウンセラーさんに開口一番言われた言葉です。

入院の痛い経験から、「もう、逃げない! わたしが娘を治そう!」
そう決めてから、わたしはわたし自身がカウンセリングを受けることにしました。

そのときから、わたしの生涯の学びはスタートします。
カウンセリング、コーチング、NLP、心理学、親業…。あらゆるものを学びに行きました。

一番娘と関わっているのは母親であるわたしだ。
拒食症になっていくプロセスにも、拒食症が治っていくプロセスにも、
わたしと娘との関わり合いに、きっとヒントがあるはずだ。

娘の拒食症の診断をもらってからも、うっすらと感じていたことです。
関わり方を変えていくこと。工夫していくこと。
それに徹底的に取り組もうと思いました。

学びの中で、わたしの知らなかったコミュニケーションの方法や人の言葉の奥にあるものなど、多くのことを知りました。

そしてわたし自身がどんな態度で、どんな表情で、どんな声のトーンで、どんな雰囲気で娘と接しているのか。
自分の態度を客観的に眺めることなど、これまでになかったことでした。

それも今だからこのように言語化できるのかもしれません。
そのときは、ただただ必死だったので。

人は勉強してこなかったことはできません。
わたしは上手な愛情の伝え方を勉強してこなかったのです。

わたしは必死に娘に愛を伝えてきました。
拒食症になってからも、一所懸命に言い聞かせていました。
愛情を伝える方法を、言って聞かせる以外に知らなかったのです。

わたしは、勉強して聴くことを学びました。聴き方を学びました。
どうやって聴いたら娘が安心できるのか。また、言葉以外の伝え方を学びました。

学んだことを実践してみると、うまくいかないこともいっぱいありました。
娘のネガティブな反応が怖くて、なかなかチャレンジできないときもありました。
そうやって試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ、少しずつ、娘との時間が穏やかなものになっていくのを感じました。

けれど「食べない」ということに関しては、ますます拒食が強まっていったのです。
わたしが頑張れば頑張るほど、娘の拒食は強まっていくのを感じました。

テクニックはもちろん拙いものでしたが、ちょっとした変化は見られました。
しかし、テクニックを超えるものがあることを、そのときのわたしは知りませんでした。

そしてそれこそが、娘の奇跡の瞬間に大きく関係するものだったのです。

当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
母の私がカウンセリングを

(2)ついに登校できなくなる

病院を自主退院してからも、夏休みの直前までは学校へ通っていました。
もう20kg台になっていたと思います。
当然、医師から登校のストップがかかっていましたが、娘は言うことを聞きませんでした。

真夏なのに、寒かったのでしょう。彼女はセーターとブレザーを着て登校していました。
ランドセルが重くて運べなくなり、徒歩5分の学校までわたしが車で送り迎えをしていました。

移動教室や集会などでの階段の移動が、とてもつらいと言っていました。

1日フルでは体力が持ちません。
担任の先生とも相談して午前中だけにしたり、午後からにしていただいたり、工夫して登校していまいした。

学校から戻ると、ぐったりとしていました。
それでも、宿題や提出物に一所懸命に取り組んでいました。
完璧主義がさらに強化されていたのかもしれません。

少しでも字の乱れがあると、泣きながら消しゴムで消して、
何度も何度もプリントやノートが薄くなって破けるまでやり直していました。

秋の合唱コンクールのクラス練習。
娘は指揮者に選ばれていましたが、立っていられない、腕を振れない。
声すら出しとおせないことから、参加を断念しました。

勉強も、委員会も、クラブ活動も、児童会も、
何もかも積極的に取り組んでいた5年生の頃を思い出しては、ベッドで泣いていました。

「今のわたしは、何もできない…。学校で活躍できなくなったわたしには、何の価値もない」
そんなことを言っていました。

「食べて元気になれば、また以前のように活躍できる。
 クラスや学校の中心になって、あの頃みたいにキラキラできる。
 それがわかっているのに、ただ食べるだけなのに、わたしはそれができないんだよ…。

 学校に行くと、いろんなことができなくなっている自分に気づかされちゃう。
 それがつらくてたまらない。でも、それをどうにかできない自分も悔しくてたまらない。
 わたしはどうしたらいいの」

そんな思いをしながらも、必死で体を引きずりながら
真夏にセーターとブレザーを着込んで彼女は毎日登校し続けたのでした。

そんな日々にたった一度だけ、玄関のチャイムがなりドアを開けたら、娘が泣きながら立っていたことがありました。
「しんどくなって、帰ってきちゃった…」

泣きじゃくる娘を「おかえり」と、ただただ抱きしめたことがありました。

そして、娘にはもうひとつ、大好きで通っている場所がありました。

娘は、絵を描くことや何かを作ることがとても好きでした。
幼稚園の頃からアトリエに通い、絵を描いていました。
拒食症になっても、それだけは続けていきたいと、アトリエに通い続けていました。

粘土、油絵、ジオラマ…。
自分のペースでじっくりと。

夜、アトリエに迎えに行くと、待たされることもしばしばでした。
そして、毎回ヘトヘトになって戻ってきました。
アトリエで過ごす時間は彼女にとって、無心になれる時間だったのかもしれません。

体力は衰える一方でしたが、夏休みに入るまで、何とか学校に通いとおしました。
終業式の日、「ママ、わたし、頑張りとおしたよ」と言って涙をこぼしていました。

そして夏休み。
「もしも、学校で倒れたら…」
医師の制止を振り切って学校へ通っていたので、
その心配がなくなったのは、命を守る母親としては、すごくホッとしました。

学校から解放された夏休みの間、長女の好きなことに付き合おう。
長女が望むことを一緒にやろう。
少しでも長女が楽しめる時間を過ごそう。

わたしはそう思っていました。

彼女にとって安心できる時間。そんな時間でいっぱいにしよう。
夏休みは、娘にとって満たされる時間だったように思います。

夏休みの終わりに近づくにつれ、長女は寂しさを口にするようになりました。

行きたくないな。
ずっと、家にいたいな。

9月の新学期。
2日目から長女は学校へ行かなくなりました。
頑張って学校へ行くことをやめました。
ここから、長女とのガッツリ24時間の関わりが続くことになりました。

(3)ますます食べなくなっていく

おそらく多くのお母さんがそうであるように、わたしは拒食症になってしまった娘に
「どうやって食べさせようか」と一所懸命になっていました。

少しでもいつもよりも食べているように感じたら、安心したり嬉しかったり。
いつもより食べないように感じたら、がっかりしたり、焦ったり、不安になったり。
娘の食行動に、一喜一憂していました。

いつもよりも食べたときの娘がつらそうだと、わたしが気づけるようになったのは、ずいぶんたってからだと思います。
そのときの娘の表情や態度、声のトーンなど、わたしは、彼女そのものを感じとろうとしていませんでした。

そしてあるときから、わたしは変わっていきました。
「食べるか、食べないか」
「何をどれだけ食べるのか」
そんなことよりも、娘の笑顔に意識を向けるように変えていったのです。

それまで、わたしの毎日は、娘の食へのこだわりに振り回されていました。

拒食症特有のルール。
娘は拒食症になってから、いろいろなルールを持つようになりました。
食べるものにも、食べ方にも、ルールがあるのです。
食事の開始時間、食事のメニュー、食べる順序、トータルの食事時間等々。

わたしは、彼女の食や食に関するルールを見張ることをやめました。
食べることを怖がる娘に、「食べてもいいし、食べなくてもいい」と言うことは、とても勇気がいることでした。

実際、そのように言ったら、娘はすごく安心した顔をしましたが、その日から明らかに食べる量が減りました。

日によっては、長い葛藤の時間はありますが、ファミリーレストランに行けるときもありました。
食べるものは、いつもドリアに決まっていました。
娘にとって、おきまりのコンビニ以外では、そのファミレスが唯一心許せる場所だったのです。

8月の長女の誕生日は、長女とふたりきりでそのファミレスに行きました。
行くまでに、泣き叫び、葛藤を1時間繰り返してのディナーでした。
ケーキの代わりに、こっそり持ち込んだ0kcalのゼリーを彼女はおいしそうに食べていました。

わずかに食べていた朝食も、いつしか0kcalのゼリーのみになりました。
昼はコンビニで買ったお気に入りのベーグルと0kcalのゼリー。
夜も同じベーグル。
これを毎日続けるようになります。

食べる時間、食事の準備のルール、食べる順番、食べるときの会話。
すべて決まっていました。

いつも決まった時間に外出の準備をして、決まったコンビニへ車で行きます。
そこにベーグルがなければ、見つかるまで同系列のコンビニをはしごして求めます。
何軒も何軒も探し求めます。

買い置きをすればいいじゃないかと思いますが、それではダメなんです。
毎日、彼女のために彼女と一緒に買いに出かけていました。

当時は社宅の3階に住んでいました。
もう、体力がない彼女は階段を昇れません。
毎日、昼と夕方の買い物を終えると、わたしが彼女を抱きかかえて3階まで昇りました。

彼女の心の状態が「快」であるように日々の関わりを続けていたものの、拒食が緩まることはありませんでした。

そして、あるカウンセラーさんが次のように言いました。

「良くならないなんて、おかしい! 本当に、わたしの言うとおりにやってますか!?
 何か違うことをしてるんじゃないですか? ここまで来て結果が出ないなんておかしいです!
 わたしの言うとおりにやってないんじゃないですか?」

それはとても強い口調でした。
わたしは、責められている、非難されていると感じました。
わたしは泣きながら反論しました。

病院でのつらい体験から、その頃のわたしにとって、そのカウンセラーさんは最後の砦だったのです。

信頼の糸がプツンと切れた瞬間でした。
漠然と感じていた違和感は確固としたものとなり、あとはもう、ひとりでやるしかない。
二度目の腹くくりをした出来事でした。

食べることへの変化はそのときは見られなかった。
けれど、治ることを信じて娘に寄り添い続けた時間は、わたしの中の思いやりや愛を育て、
お互いに、今この瞬間に存在し合い、深く理解するための尊くかけがいのない時間の連続だったのです。

それが、奇跡へとつながる唯一の方法だったのです。

※拒食症ストーリー2へ続く