【拒食症克服ストーリー3 】家族の物語「仮面の夫婦」と拒食症・きょうだいの苦しみ
拒食症の克服には家族の支えが必要です。
もちろんいちばんつらいのは本人です。しかし、支える側の家族にも大変な負荷がかかります。
長い長い葛藤の末に、長女は拒食症を克服することができました。
(詳しくは拒食症克服ストーリー1、および拒食症克服ストーリー2を参照)
ほっとしたのもつかの間、今度は次女に異変が起こります。
朝になると吐き気と激しい下痢を繰り返し、学校へ行けなくなりました。
長女が拒食症と戦っている間、次女もずっと不安や寂しさと戦っていました。
そしてそれはもう限界だったのです。
ここでは、拒食症の娘を持ったわたしたち夫婦の問題と、
拒食症の姉を持つ次女の抱えたきょうだいの苦しみ、拒食症と家族の物語をご紹介します。
目次
1. 「仮面の夫婦」と拒食症
(1)夫婦の問題
誰が見ても仲の良い夫婦。
わたしと夫は、そんな夫婦に見えていたと思います。
しかし、ある出来事がきっかけで、わたしたち二人の関係は変わっていきました。
結婚して12年を過ぎた頃、わたしと夫はある問題を抱え始めました。
それは、わたしにとってとても深刻な問題でした。
そしてわたしは、その問題が起きた原因を、「わたしが妻として未熟だったからだ…」と決めつけてしまったのです。
子どもたちの気持ちにも寄り添いながら、母として完璧であることをわたしは目指していたように思います。
夢中でした。当時は「子育てこそわたしの天職だ!」と感じていました。
そんな中で起きた夫婦の問題。
「こうなってしまったのは、わたしのせいだ…」
「わたしが妻として、いたらなかったからだ」
そんな言葉で自分を責める日々が続きました。
そして、その日をさかいにわたしは、娘たちの母親という役割を後回しにして、
主人の妻として生きることに全力をそそぐようになっていったのです。
(2)何かを感じ取った子どもたち
「優しかったママが、急にお姉さんになった」
その頃のわたしのことを、後に長女がそのように教えてくれました。
そうです。
わたしは、お母さんモードから、一気に女性としてのスイッチに切り替えてしまったのです。
それまで子どもたちと一緒に寝ていたのに、わたしはその日のうちに二段ベッドを買いに行きます。
「今日からママはパパと寝るからね。あなたたちは、ここで寝るのよ」
車の助手席にあった長女のジュニアシートを、後部座席に移します。
「今日からあなたたちは後ろの席に二人で座るのよ。ママはパパのお隣に座るわね」
夜は仕事から帰ってきた夫を最優先。
子どもたちが眠りにつくまで絵本を読み聞かせていたのに、
早々に切り上げて、食事と晩酌のお供をするようになりました。
そして、その日をさかいにわたしはよく泣くようになりました。
もちろん、娘たちの前では泣いたつもりはありません。
けれども長女は見ていたのです。
「ママが泣いている…」
感情のコントロールを失う日が多々ありました。
日中は当然これまで通り、子どもたちと全力で楽しんで過ごしましたが、夕方になると、厳しいママに変身していました。
きちんと部屋を片づけなくちゃ!
早く夕食の支度に取りかからなくちゃ!
パパが帰ってくる前に、子どもたちのお風呂を済ませなくちゃ!
娘たちからしたら、ある日突然、生活のペースが変わってしまったのです。
これまで、おっとりのんびりと一緒に楽しんでくれていたママの突然の変化に、娘たちはどれほど戸惑っただろう。
きっと、とっても寂しい思いをしたはずです。
そして、とっても不安だったんじゃないかなって思います。
(3)愛着のテーマ
親が子どもに残せる唯一の財産は「両親が幸せでいること!」
そりゃできれば仲むつまじい方がいいかもしれない。
けれど一番大切なのは、どんなに喧嘩をしたって、ママやパパが幸せでいることなんじゃないかなって思います。
子どもは、ママにいつも笑顔でいて欲しいのです。
子どもの幸せは、ママの笑顔なんです。
娘たちは敏感に感じ取っていたのです。
そしてそれは正しかったのです。
2. 「仲良し家族」の崩壊
(1)休日の過ごし方
お休みの日はいつも一緒に過ごしていた仲良し家族。
長女の拒食症をきっかけに、わたしたち家族の過ごし方が変わりました。
子どもたちが幼い頃から、我が家の休日はいつもどこかへ外出していました。
公園、キャンプ、釣り、旅行、
買い物、デパート、映画、外食…。
どんなところも、家族揃って出かけていました。
夫は子ども時代、家族揃って外出する体験がほとんどなかったそうです。
だから、そんな家族がとても羨ましかった。
自分が家族を持ったら、家族サービスをたくさんするんだと決めていたようです。
夫は一所懸命でした。
いつもわたしたちを楽しませるためにあれこれ調べ、連れて行ってくれました。
夫、長女、次女、わたし。いつも家族4人、一緒でした。
いつも、いつも、いつも。
スーパーへの買い出しでさえ一緒です。
子どもたちがベビーカーに乗っている頃から、
歩くようになり、幼稚園児になり、小学生になり、
1年生、2年生、3年生、4年生、5年生になっても、そのスタイルは変わりませんでした。
土日の単独行動はありえなかった。
「家族はともに過ごすもの」という暗黙のルールが、子どもの成長とともに変化することもなく延々と続いていきました。
わたしはだんだん不機嫌になっていきました。
土曜も日曜も外出。
1日中遊んで、食事も、洗濯も、掃除も、全部やらなければならない。
疲れていても、負担に感じることがあっても、
「今日はやめよう。わたしは行きたくない」と、言えなかったのです。
断ったり、別の提案をしたりする代わりに、わたしがとった行動はとても子どもっぽいものでした。
不機嫌に振る舞うこと。
疲れた感をマックスで表現すること。
ため息を聞かせること。
小言を言うこと。
八つ当たりすること。
今思えばなんて未熟な…と思うけれど、あの頃は、それしかできないと思い込んでいました。
そばにいた子どもたちはどれほど居心地が悪かっただろう。
楽しいことと、ママのご機嫌の悪さがセットになっているのだから。
そして子どもたちも、土日にお友達と遊ぶことはほとんどありませんでした。
たとえ、どんなに家でゆっくり過ごしたいと思っていてもそれも叶いませんでした。
長女は自分の時間を大事にする子でした。
何かをじっくり作ったり、描いたりすることが大好き。
だから本当は学校がお休みの日は、自分の作業をゆっくりとじっくりと楽しみたいときもあったと思うのです。
学年が上がればなおさら、そんな時間を持ちたくなっていったでしょう。
しかし叶わなかった。
「行きたくない」が通じなかった。
単独行動は許されなかった。
家族との時間を大切に行動することを優先させられた。
しかし、そんな頑なに守られたルールが、長女の拒食症の発症をきっかけに崩れだしたのです。
当初はそれでも一緒でした。娘は泣きながらついてきました。
ふくれっ面でついてくるときもありました。
当然、そんなときは、わたしに怒られるのですが…。
「あなたがそんな態度だと、みんなの楽しい気分が台無しになるんだよ。
もっと、みんなのことを考えなさい。空気を読みなさい」
恥ずかしいことですが、そうやって娘に苛立ちをぶつける自分の姿にはまったく気づいていませんでした。
しかし、拒食症が進み、娘が精神的に不安定になり、だんだん食事ができなくなっていきました。
彼女の症状をなぞるように、平日は彼女の気持ちに配慮して過ごしていましたが、
週末になると、夫の希望にそうスケジュールで家族が行動することは変わりませんでした。
娘の顔が歪んでいくのがわかるのに、わたしはハラハラしながら、それでも娘を連れ出すことに必死になっていました。
わたしは断ることが怖かったのです。
「あの人が、家族の時間を大事にしている…。応えなくちゃ! 断ったら申し訳ない…。
断ったら、あの人がよそへ行ってしまう…。あの人の心地よい居場所でなければ…」
(2)夫と拒食症
長女が拒食症の診断を受けたのは4月。当初はまだ、拒食症の深刻さをわかっていませんでした。
夫もわたしも、これまでと変わらずに生活していました。
けれど、長女の様子が日増しに深刻化していくにつれ、状況が変わっていきました。
家の中の空気感がピリピリと張り詰めてきたのです。
長女が? わたしが? 家族みんなが? 重苦しさの中でそれぞれが生活していたように思います。
わたしたちの不用意な発言は、長女の感情を刺激しました。
何気なく話す食べ物の話も、学校の出来事も、テレビの内容も。
いったん彼女を刺激すると、彼女の状態は不安定になってしまいました。
長女の状態が不安定になると、家じゅうに響き渡る声で泣き続けます。
そして彼女の泣き声は、わたしを不安定にさせるに十分な威力がありました。
不安定さが伝染していくのです。
また、わたしの不安定さが次女に影響し、次女の不安定さが長女に影響する。
ともに暮らす家族間で、ネガティブに影響しあう毎日でした。
またその頃は、飼っている熱帯魚が次々に死んでしまいました。
熱帯魚は長女が育てていました。
新しい子を買い足しても、追いつかなくなるほど死んでしまうのです。
その頃の我が家の張り詰めた空気が、そうさせていたのかもしれません。
わたしはいつの間にか、長女の顔色を見て会話をするようになっていきました。
トラブルを避けるために先回りして、問題を回避していくようになりました。
けれど、上手くいくときばかりではありません。
先回りの勘を張り巡らせ、勘が外れると対応できずに神経がすり減る。
それの繰り返しでした。
ヘトヘトでした。
だからそんな中で、ほかの家族が娘の気持を逆撫でるようなことを言ったりやったりすると、わたしは苛立ちました。
また、なだめなくてはならない。
何より、常軌を逸したように泣き叫ぶ長女の姿を、わたしは見たくなかったのです。
訳のわからぬ理由で泣き叫ぶ長女に寄り添っても、
彼女がいつまでも復活できないでいると、夫のため息や舌打ちが聞こえてくる。
そうなると、わたしまでもがつらくなっていきました。
夫は朝早く仕事へ行き、夜遅く帰ってきます。
長女は体力が持たず、夫が帰宅する前には眠っていました。
週末の二日間は長女も夫にできる限り、合わせているように見えました。
そしてわたしは夫に相談ができませんでした。
夫は仕事が忙しかったのもありますが、
仕事に集中してほしい、家に帰ってきたときはゆっくりしてほしい。そう思ったからです。
そして何より、わたしは上手に夫に頼ることができなかったのです。
今思えば、夫ももしかしたら、寂しかったのかもしれません。
何が起きているのか。わたしは淡々と夫に報告するだけ。
それだけ。
それ以上の話をすると、わたしはますます自分が孤独になっていきそうな気がして話すことができませんでした。
泣き言を言ったら、自分が頑張れなくなるような気がしていました。
だから夫には、変わっていく長女の様子があまり伝わっていなかったかもしれません。
そしてわたしの気持ちも。
夫も、長女の様子をあまり詳しく聞いてくることはありませんでした。
「拒食症」について調べることもしませんでした。
彼女が拒食症になったことで、わたしを責めることもしませんでした。
そんな関わりはわたしにとっては、無関心に思えるときもありました。
けれどそのおかげで、わたしが長女との関わりに集中することができたのも事実です。
大切な長女が日増しにやせ衰え、骨と皮になっていく。
可愛かった笑顔は消え、顔の筋肉が落ち、まったくの無表情。
「〇〇の顔、昆虫みたいになっちゃったね」
夫だってつらくないわけないのです。
夫は仕事に集中することで、わたしたちを支えてくれていたのかもしれません。
けれどわたしたちはその渦中にあって、お互いに思いやることができなかった。
自分を保つことで精一杯だった。
ただ重苦しく張り詰めた毎日の中で、耐えることしかできない時間がありました。
(3)本当の仲良し家族へ
拒食症の症状が重くなり、家族で外出しても長女は車の中で待つようになりました。
勇気を出して外食しても、いざメニューを前にすると全身が固まってしまい注文できなくなりました。
ある日、大好きだったお寿司屋さんのテーブルで、
メニューを前に無言で涙をこぼした娘を、わたしはそっと店の外に連れ出しました。
「ママ、ごめんなさい。どうしよう。パパがせっかく連れてきてくれたのに…。ああ、どうしよう。
でも、何も選べないんだよ…。でも、お店には戻らないとダメだよね。みんな、楽しみに来てるのに…」
娘は震えていました。
そんな彼女の背中をさすりながら、わたしは自分が情けなくなりました。
「わたし、何やってるのだろう。この子に、何をさせようとしていたんだろう」
娘に言いました。
「大丈夫だよ。今まで気づいてあげられなくてごめんね」
「戻ってもいいし、戻らなくてもいいんだよ」
「このままママとここにいてもいいし、お店に戻ってもいいし、お家に帰ってもいいんだよ」
「〇〇ちゃんが感じたように選んでいいんだよ」
「〇〇ちゃんの気持ちを大事にしていいんだよ」
そのときは、しばらく店の外で二人で一緒に過ごし、そのあとお店に戻り、
彼女は好きなお寿司を頼んで食べることができました。
そしてこの日をさかいに、わたしは娘への声かけを変えていきました。
「自分の感じたように、選んでいいんだよ」
「何を選んでも、大丈夫だよ」
「〇〇してもいいし、しなくてもいいんだよ」
「あなたは、どうしたい?」
そんなスタイルに変わっていきました。
そしてそれは、わたし自身にもかける言葉だったようです。
家族だからっていつでも一緒に過ごさなければダメだなんて、いったい誰が決めたことなんでしょう。
一緒に過ごすこともとっても素敵な時間だし、ひとりで何かに没頭する時間も素敵な時間。
また、家族の気配を感じながら、ひとりボーッと過ごす時間も安らかに流れる時間。
どれもその人にとって大切な時間。
時間はいのち。
たとえ親であっても、子どもの時間をこちら側の都合で奪うことはできないんですよね。
長女の拒食症をきっかけに、我が家のメンバーの時間の使い方が変わりました。
以前のメガネで眺めてみれば家族がバラバラ。
けれどそれは、家族それぞれの思いが尊重される過ごし方に、変化していったのだと感じます。
3. きょうだいの苦しみ
(1)SOSのハガキ
小学校でたまに配られる「子どもの人権SOS」。
往復ハガキになっていて、悩み事を記入して回答の返事がもらえるもの。
「ママこれ出しておいて」
ある日、次女からそのハガキを投函しておくように頼まれました。
そこには次のように書かれていました。
「お姉ちゃんが病気になり、パパとママはお姉ちゃんにつきっきりです。
お姉ちゃんは拒食症という病気で、いつ治るのかもわかりません。
わたしは学校へ行くと、いてもたってもいられなくなってしまいます。わたしはどうしたらいいでしょうか」
長女が拒食症になってから、次女のことがずっと心配でした。
次女の訴えは本当で、わたしは次女の寂しさに気づいていながらも、
次女のことをほったらかしで、長女につきっきりだったのです。
わたしの気持ちの比重は長女が9割以上、次女は1割にも満たない状況でした。
小学3年生。まだまだ甘えたい年齢。
それでも次女は一所懸命に笑顔でいてくれていました。
お姉ちゃんに対して、腫れ物に触るように気をつかいながら接しているお母さん。
自分が話しかけても、「ちょっと待っててね」と言って、いつもお姉ちゃんを優先しているお母さん。
お姉ちゃんが泣き出すと何時間もお姉ちゃんのそばに寄り添って、おやつもご飯も後回し。
学校の宿題も連絡事項も、お稽古事も、友達との出来事も、
ゆっくりと次女の目を見て話をすることがなくなっていきました。
それでも次女は、不満を言うことがなかったのです。
もともとお友達と過ごすことが大好きな子でした。
ピリピリとした家の中にいるよりも、きっとお友達と遊んでいる方が次女も楽だろう。
わたしはそう思っていました。
だからわたしの方から積極的に、お友達のところへ行くように勧めていました。
行けば楽しく過ごしていたでしょう。
家にいるよりも笑うことができたでしょう。
だから、その方がいいに違いない。勝手にそう思い込んでいました。
家でも次女は普通に過ごしてくれていました。
そして次女がわたしに向けてくれている笑顔に、わたしは甘えてしまっていたのです。
心配しながらも目の前の長女のことでいっぱいいっぱいになってしまい、
つい、次女のことが後回しになってしまっていました。
そんなときに見た次女のSOS。
わたしに直接言うのではなく、会ったこともない人に助けを求めた次女の苦しみは、どれほどのものだったのだろう。
そして数週間後、わたしはグシャグシャに丸めて捨てられたハガキを見つけます。
「お父さんやお母さんの言うことを聞いてあなたがいい子で頑張り続ければ、必ずよくなります」
ハガキにはこのように書いてありました。
次女が助けを求めた手紙のお返事でした。
つらさや苦しみをわかってもらえないことは、大人でもつらいものです。
大人ですら孤独を感じます。
お母さんが、自分のことを見ていない。
お母さんが目の前にいるのに、お母さんの目には自分が映っていない。
自分の声がお母さんに届かない。
毎日毎日、その現実を味わわなければならないのは、8歳の次女には残酷なことだと。
次女はわたしにわかってほしかった。
けれど、わたしにSOSを出せなかった。
いや、きっと出していたはず。でも、わたしは受け取ってなかった。
だからこそ、第三者に助けを求めた。誰かにわかってほしかった。
「お姉ちゃんはいつになったら治るの? お姉ちゃんの病気は本当に治るの?
この地獄はいつまで続くの? この地獄は一生続くの? わたしはずっと我慢し続けるの?」
長女が最初の入院から数日で戻ってきたとき、次女がわたしに言いました。
でも、わたしには答えられなかった。
いつまでに治るよって、答えられるわけないじゃない。
そう思って、わたしはどうすることもできませんでした。
彼女はただ寂しさと不安を訴えているだけだったのに。
何ひとつ受け取ってあげることができませんでした。
そして次女にとっての地獄は、この先も続いていくのでした。
子どもが拒食症になる。
わたしもつらかった。そして、拒食症だった長女はもちろんつらかった。
だけどもしかしたら、一番つらかったのは次女かもしれない。
そんなふうに思うのです。
当時の様子をくわしく振り返ったブログも公開しています。
▶「こんな地獄がいつまで続くのか」次女の言葉の背景にあったもの
(2)ママはお姉ちゃんにかかりきり
長女が拒食症を発症したとき、次女は小学校3年生になったばかりでした。
ある日をさかいに生活がガラリと変わっていく。お姉ちゃんの様子がみるみるおかしくなっていく。
些細なことで泣くようになる。
ちょっとしたことで怒り出す。
何にも興味を示さなくなる。
笑わなくなる。
お姉ちゃんの存在が怖くなる…。ママはそんなお姉ちゃんにつきっきり。
次女は、そんなわたしと長女をただ毎日黙って見続けていました。
100パーセント長女に注意を向けているわたしのことを、いつも待っていました。
次女にとっては長女が眠った後が、わたしを独り占めできる時間でした。
長女は体力が続かず、夜は早い時間に休んでいました。
わたしは長女が眠りにつくまで長女のそばにいることが多かったのですが、
次女は息をひそめて、長女が眠りにつくのをじーっと待っているのです。
さあ、今度は次女の番!
しかしわたしは疲れ果ててしまい、次女が一所懸命話をしても生返事ばかり。
やっとママを独り占めできた次女を、いつも思う存分に甘えさせてあげられるわけではありませんでした。
そんな次女は、学校へ行くのがだんだんつらくなってきます。
でも、次女が家にいると都合が悪い…。
わたしは次女が家にいない方が、長女に関わりやすかったのです。
何としても、学校に行って欲しい。
これで1日長女も次女も家にいたら、わたしが無理だ…。
そんなわたしの無言の圧力を感じてか、次女は渋々登校する日が増えていきました。
そして頑張って学校へ行って、いざ家に帰ってきても、
ママから労ってもらえるどころか、ママはやっぱりお姉ちゃんにつきっきりなのです。
次女は幼い頃から、お友達と過ごすことが大好きな娘でした。
お泊まり会もしょっちゅうしていました。
幸いなことに、事情を知ってくれた友人が次女を預かってくれたりしました。
小学校のお友達のお家にお泊まりさせてもらったり、夕食をご馳走になりに行ったり。
夏休みには、以前住んでいたところのお友達の家に、2週間も滞在させてもらいました。
そのときの写真を見ると、本当に楽しそう。
友人たちに、娘のお友達の皆さんに感謝でいっぱいになります。
そのときだけはつらいことを忘れて、楽しいひとときを過ごすことができていたのだと思います。
長女が入院先を脱走し、自宅療養に切り替えた夏休み。
次女はお友達の家、おばあちゃんの家にひと月以上滞在しました。
彼女は家に帰ってくるとき、どんな思いだったんだろう。
秋。運動会がありました。
その頃には長女の拒食症は、かなりひどい状態になっていました。
運動会に出るのは次女だけです。
長女は家で留守番をしていました。夫はその日、仕事でした。
次女は、学校へ行きたくない日も学校へ行き、運動会のダンスを一所懸命に練習していました。
ママ、ママ! ダンス、見てね!
ママ! わたしはこれとこれに出るよ!
ママがすぐにわたしのこと見つけられるように、靴下を目立つのにしよう!
ママ! ママ! 絶対に応援に来てね。
いっぱい〇〇の写真撮ってね!
わたしはその日、久しぶりに長女から離れ、学校へ行きました。
それだけで何という解放感。
空が青くて涙が溢れ、たくさんの元気な子どもたちの声を聞いて涙が溢れ、はじける笑顔たちに涙が溢れる。
6年生の長女の同級生たちが挨拶に来てくれて、6年生の競技を見て、わたしはずーっと泣きっぱなしでした。
本当に、ひたすら泣いていました。
あるときから泣かないと決めていたわたしは、何かがはじけたように涙が溢れて止まらなくなってしまったのです。
そして、そんなわたしを、次女はずっと見ていたのです。
自分の競技が始まるとき、振り返ってみたらママが泣いている。
ダンスの途中でママを見たら、ママが泣いている。
次女が手を振ってくれて、慌てて涙を拭いて笑顔を返す。
そんなことを何度も繰り返していました。
運動会の思い出。
いろんなことを乗り越え、今、次女は元気な高校生。
それ以降、運動会のたびに、わたしはそのときのことを思い出します。
目の前ではじける笑顔の次女を眩しく眺めます。
愛しい想いで目に焼きつけます。
ただ真っ直ぐに娘を見つめます。
いまだに次女は、運動会でわたしを探します。
わたしたちは笑顔で合図を送り合います。
運動会が終わってひと月たった頃、長女が二度目の入院をしました。
運動会も終わり、次女は学校を休む日が少しずつ増えていきました。
長女の病院での面会時間が14時からだったので、それまでの時間は学校を休んだ次女と過ごすことが増えました。
やっとママとふたりきりになれた! 次女にとっては大事な時間だったのかな。
14時までの時間、いろんなことをして過ごしました。
それまでの寂しさを埋めるように、いっぱい甘えてきました。
だけど、わたしは次女が不登校になるのではないか…と怖くてたまらなかった。
甘えさせてあげたい気持ちと、このまま不登校コースになる恐怖とで揺れ動いていました。
せっかく一緒に過ごすのに、そんなことばかり考えていたかもしれません。
十分に一緒に楽しんで過ごす気持ちの余裕がやっぱりなかったのです。
気持ちが今、この瞬間にいなかった。
気持ちはいつも、未来への不安ばかり。
それでも、たくさんいろんなところに行きました。
でも…。必ず14時には長女の面会に行っていました。
面会時間は20時まで。
どんなにママと二人で楽しい時間を過ごしても、14時から20時まで、ママはお姉ちゃんのところへ行ってしまう。
次女はひとりでお留守番だったのです。
「行かないで! わたしを置いていかないで! ママ、一度くらい〇〇のことを選んで!」
一度だけ、わたしが病院に行こうとしたときに、玄関ドアの前で両手を広げてわたしを引き止めたことがありました。
次女は泣いていました。必死にすがりつくようにわたしを引き止めたのです。
けれどわたしは、次女を置いて行ってしまったのです。
次女の心が壊れるのではないか。もう、ギリギリのところまで来ているのではないか。
完全不登校になったらどうしよう。
次女も拒食症になってしまったらどうしよう。
そう思っても、わたしは長女を優先してしまっていたのです。
いつまでたっても長女9割、次女1割の関わりを、わたしは変えることができませんでした。
長女はギリギリで、奇跡の回復を見せてくれた。
あとはこのまま良くなっていくに違いない。
もう、先の見えない地獄は終わりだよ。お姉ちゃんは治ったよ。
もう、元の生活に戻っていくよ。
しかし、次女が安心の笑顔を見せてくれることはありませんでした。
(3)次女の不登校と家庭内暴力
長女が拒食症で大変だった頃、次女は本当にいい子で一所懸命に頑張っていました。
わたしはそんな次女に甘えていましたし、長女の拒食症が早く良くなれば、元の生活に戻れるとばかり考えていました。
しかし、順番を待っていたかのように、次女の我慢していたものが爆発したのです。
長女に奇跡の瞬間が訪れ、「ママ! わたし、治った!」となってから、今度は次女が学校へ行かなくなりました。
「なぜ? もう、元の生活に戻れるのよ? あなたが言っていた地獄のような生活はもう、終わったんだよ?」
次女は小学校3年生の後半、ほとんど学校へ行っていません。
3学期は一度も登校できませんでした。
長女は拒食症が治ってから入院して体力回復を図り、6年生の3学期バレンタインデーの日をきっかけに復学します。
けれど、次女は行けませんでした。
ずっと我慢していたのだから、無理もないか…。
最初、わたしはそう思っていました。
しばらく一緒に過ごそう。次女と向き合う時間を作ろう。
これまでできなかったことを、彼女が望むことを一緒にやっていこう。そう思いました。
次女には、苦しい時間を支えてくれた仲良しのお友達がいました。
仲間たちとの触れ合いは、緊張感の連続だった毎日の中で、彼女が笑顔になれる大切な時間だったと思います。
けれど、そんな大切な仲間とも、お別れをしなければならなくなりました。
わたしたちは、転勤族の家族です。北陸の地から、再び関西に戻ることになったのです。
次女が4年生になる4月のことです。
4月新学期2日目の朝。次女はトイレにこもって泣いていました。
朝になると吐き気を催し、激しい下痢になります。
トイレで、意識が朦朧となるくらい嘔吐と下痢を繰り返すのです。
それまでは、学校へ行きたくない、行かないというときも、身体症状として現れることはありませんでした。
胃腸の風邪? 嘔吐下痢かしら? のんきなものです。
一抹の不安を感じながらも、そんなことを思いながら小児科にかかりました。
次女は楽しそうな話をしていたし、希望に満ちた言葉で話していました。
でも、彼女の様子を見ていれば、本当はどんな気持ちでいたのかなんてことはわかるはずだったのです。
胃腸風邪などではなかったのです。
「お姉ちゃんが治って、新しいお家が出来上がって、自分だけの素敵なお部屋ができて、
自分のことを知らない場所で新しくスタートができると思ってたのに…」
トイレで毎朝うずくまり、苦しそうに次女は吐き出しました。
そして次女は、転校先で不登校児となりました。
彼女を知り、理解してくれるお友達のいない学校。
新しい土地でいきなり、不登校児とその母親になったわたしたち。
できれば学校へ行って欲しかった。
もう、問題は解決しているのに! 神様はいったいどこまでわたしを追い詰めるんだろう…そう思いました。
ここでもやはり、わたしは自分がつらくてたまらなかったのです。
学校の先生は、勉強の遅れをとても気にされていました。
いざ復学をとなったときに、勉強の遅れがネックになって上手に復帰できない生徒が多々いると言われました。
ゴールデンウィークにはこれをやらせてください。
夏休みは遅れをしっかりと取り戻させてください。
週末にはこのドリル、このプリントを…。
学校へ登校し、授業を受けれないのなら、せめて自宅で規則正しい生活をさせてください…と。
初めのうちは先生の助言どおり、ドリルやプリントをやるように一緒に取り組みました。
けれど、ダメなんです。
気持ちが焦るのか、漢字も、計算も、文章も読めなくなっていきました。
かけ算九九ですら、言えなくなってしまいました。
リコーダーも吹けなくなりました。
やろうと思いテーブルにいても思うように進まず、行き詰まるとノートやプリントをぐちゃぐちゃに破り暴れ出します。
泣き叫びます。
次女はお風呂に入らなくなりました。1週間入らないなんて、当たり前になりました。
1日中ソファに座って、テレビを眺めるようになりました。
でも、見ていないのです。ただ、テレビをつけ、眺めているだけ。
何かきっかけがあると、火がついたように怒鳴り、怒り出し、泣き叫ぶ。
誰も何も言ってないのに、悪口を言っていると思い込む。
長女の拒食症を克服に導けたのだから、次女の不登校はそれより簡単にいくだろう。そんなふうに思っていたのです。
ところが次女は思った以上に強敵でした。
わたしは途方にくれました。
長女の拒食症から次女の不登校。
わたし自身が疲れてしまっていたのもあるかもしれません。
もしも誰かに委ねることができるなら…。つい、そんな考えがよぎったのです。
そしてある不登校支援機関に、メールで相談したのです。
そこはいわゆる「登校刺激」などの介入をしてくれるところでした。
人任せにしてでも、楽になりたかった。当時のわたしは、多分、相当追い詰められた気持ちでいたように思います。
けれどメールの返信は、そのときのわたしにとって期待外れなものでした。
「お嬢様が不登校になっていかれた経緯を考えますと、当方ではお手伝いできません」
支援機関ですら、匙を投げる状況なんだ…。
ショックを受けると同時に、ある思いが湧き上がりました。
「そうだよね。彼女に本気で寄り添わなきゃいけないのは、母親である私なんだ」
追い詰められて崖っぷちで、湧いてくる力のようなものを感じました。
そしてあるとき、次女の表情がおかしいことに気づきました。
目が死んだ魚のようになっている。完全に精気を失ってしまっていたのです。
わたしは怖くなりました。
やばい…。そう思いました。
「勉強なんて、どうでもいい。規則正しい生活なんてどうでもいい。
〇〇の笑顔を取り戻すために、なんでもやろう。
もう一度、腹をくくって本気に取り組もう。娘と向き合おう。寄り添おう」
わたしは娘のその姿を見て、本気で腹をくくったのです。
(4)次女と向き合う、そして回復へ
「学校に行ってもいいし、行かなくてもいいんだよ」
わたしは次女に言いました。
そして学校から遠ざけ、できるだけ次女のやりたいこと、楽しいことをやるように試みたのです。
少しずつ、次女はリクエストしてくれるようになっていきました。
「ママと一緒に遊園地に行きたい」
「ママと一緒にカラオケに行きたい」
「ママと一緒に映画に行きたい」
「ママと一緒にお菓子を作りたい」
「ママと一緒に…」
次女がやりたいと思うことはなんでも実行し、次女が楽しいと感じる時間を共有しました。
勉強のことは一切娘に言いませんでした。
先生やお友達が持ってきてくれるプリントやドリルは、わたしがそっと預かっていました。
心が再び元気になればいくらでもやるだろう。
今大事なことは、しぼんだ風船のようになってしまっている心を元気いっぱいにすることだ。
「快」で満たすことだ。
わたしはそこに注力するようになっていきました。
何をするにも「ママと一緒に」がキーワードでしたが、
だんだんと自分でじっくり何かをすることに夢中になり始めました。
お菓子づくり、お料理、手芸、ネイル、DIY。
いろんなことに挑戦するようになりました。
ひとつひとつ、できるようになっていく喜び。
そして誰かにプレゼントして、その相手が喜んでくれる。
そんな時間を丁寧に重ねているうちに、ある学校行事をきっかけに登校するようになったのです。
5年生の秋のことです。復学といういう意味では、完全復活でした。
実際それ以降、彼女は休むことはありませんでした。
けれどわたしは直感で、まだ終わっていないと感じました。
長女の拒食症が治った瞬間に感じたような感覚を、わたしは次女には感じていなかったのです。
その予想は当たっていました。
学校へは行けるようになりましたが、それと同時に毎日家の中で暴れるようになりました。
わたしが、親業やNLP(心理学)やコミュニケーションを学んでいるにも関わらず、
母として、次女の想いに答えることができていないことへの不満が爆発していました。
「ママはそんなに学んでるのに、どうしてできないの?!」
「ママは馬鹿なの?」
「目の前にわたしがいるのに、どうしてわたしを見てくれないの?! わたしを見てよ!」
机の上のものをなぎ倒し、椅子を蹴り倒し、壁を叩き、次女は泣き叫ぶようにわたしに言いました。
わたしにとって次女と接するときは、地雷だらけなのです。
わたしの態度や表情、一言一言が、次女を苛立たせてしまうのです。
彼女がキレるたびに、わたしは自分のひたいにバッテンがつくように感じました。
バッテンがつかない日はありませんでした。
次女が暴れ出すと、長女の状態も不安定になってきます。
「あの子を黙らせて! こっちまでおかしくなりそう!」
次女の雲行きが怪しくなると、わたしは全身に緊張が走りました。
肩に力が入るのがわかりました。
そんな毎日でしたが、日に日に少しずつ、次女の吐き出す内容が濃くなっていくことに気づきました。
わたしは、もっと、次女の感じていることを教えてほしい、もっと、聞かせてほしいと思うようになりました。
そして、ついにある晩、次女が胸の中に蓋をしてしまいこんでいた決定的な言葉を吐き出したのです。
「ママもパパも、お姉ちゃんのことしか見ていなかったから、わたしがどれだけつらかったかわかるわけないよね?!
お姉ちゃんが良くなってからも、わたしがずっとずっとつらかったことに気づいてないでしょ?!
わたしのことなんて、本当は何も見てないんだから、わかるわけないんだ!!」
次女が、長女が拒食症のときの悲しみや苦しみをわたしにぶつけてきたのは、このときが初めてでした。
今までは「お姉ちゃんが大変だったとき、わたしはあのとき頑張っていたよね?」
「わたし、偉かったよね?」としか言わなかったのです。
本当はつらくてたまらなかった次女の苦しみに触れたとき、わたしの中で長女が死のうとしたときと状況が重なりました。
「長い間気づかなくてごめんね。どんなにつらかったか寂しかったか、気づかなくてごめんね」
泣き叫び、もがいて暴れていた娘を強く抱きしめわたしはそう言いました。
すると、わたしの言葉を聞いた瞬間に次女の全身の力がスーッと抜けていくのがわかりました。
長女の拒食症が治ったときと同様に、そのままわたしの腕の中で眠ってしまったのです。
「愛しているよ。大好きだよ。価値のある存在なんだよ」
眠っている娘を抱きながら、何時間も言い続けました。
そして次女の寝顔を見ながら、「ついに終わった」のだと確信しました。
その次の日から、次女はそれまでとは別人のように穏やかになり、日常が戻りました。
キレることも、暴れることも、泣き叫ぶこともそれからは一度もありません。
そして、その後も休むことなく明るく学校へ通うようになったのです。