【拒食症・不登校克服】自分の不完全さを愛せるか
ごきげんよう、渡辺貴子です。
よくある私たちの夫婦のLINEのやりとり
夫: お米、まだいけそう?」
私: ありがとうー!残りの袋、あけたとこー。
ペリエ、昨日届いたよっ!残り1本だった!
すごいっ!ありがとう!
夫は単身赴任中だが、我が家の米事情を把握している。
いつも、5kg×2袋をネットで注文して送ってくれるのだ。
なぜかというと、
お米がなくなる最後の瞬間まで
私はそのことに気づけないからだ。
この話をすると、たいていのかたは
「ん?」
という顔をする。
お米がなくなる最後の瞬間まで、なぜ、気づかないの?
理解できないのだと思う。
けれど、夫は違う。
「君はそういうことが苦手。だから僕がそれを補えば良いだけ」
こういったことは、生活のあちこちで見られる。
生活必需品もろもろのストック
振り込み関係
ペリエもそう
「そろそろなくなる」ってころに、1ケース届くのだ。
「ねえ、どうして定期購入じゃないの?」
って聞いたことがある。
家族の様子を想像して
「そろそろかな〜」
ポチるタイミングを決めているんだって。
家族から
「パパ!届いたよ!ありがとう!」
と感謝と喜びのメッセージが届く。
それが、夫の喜びらしい。
私は夫を素敵だな〜と、思う。
苦手なことに、時間と神経をすり減らさなくていいんだよ。
僕がやるから。
僕はそういうことが、得意だから。
夫は、
なぜ、やらないの?
なぜ、できないの?
こうすればいいんじゃないの?
やる気がないからじゃないの?
そういったことは、いっさい言わない。
私はいつしか
できないことの言い訳をしなくなった。
だってね…
でもね…
なんで、わたしばっかり…
あなただって…
以前の私たち夫婦はそうではなかった。
私は「家のことは何もかも自分ががやらねば」と思っていたし、
それらを苦手だとも思っていなかった。
ただただ、失敗しないように、家族が快適であるように、
周りに迷惑をかけないように、
なんなら「すごいね」って言われるように、
頑張ってた。
自分がやらねばと思っていながら、
一方では
「なんで自分ばかりが…」
という不満も溜め込んでいた。
だから
できないとき自分を責めたし、そんな自分を認めたくなかった。
「こんなこともまともにできないなんて」
夫に責められるまえに、言い訳をした。
「私だって、大変なのよ!」
夫はいう。
なんで、そんなに不機嫌なの?
いつもイライラしているね。
私は、(私が思う)正しい妻、正しい主婦であり続けるために必死だった。
そう、
娘たちが拒食症になり、不登校になるまでは…。
彼女たちに寄り添い
自分と向き合う時間は
私にたくさんの「気づき」をもたらしてくれた。
柔軟に生きることを教えてくれた。
愛と感謝の視点で眺めたら
この世界はありがとうで溢れていることに気づかせてもらえた。
人は完璧じゃなくていいんだということ。
自分の不完全さを認めるということ。
その不完全さを抱えながら、その時その時を人は精一杯に生きているんだということ。
私は、自分の不完全さを許せたとき、
自分はあらゆるものに支えられて生きているのだということに、
心が震えた。
閉じていた心が開いて、流れ溢れてきたものは
森羅万象、命への感謝だった。
そう、感謝しかない…。
鎧が剥がれおち、心が柔らかくなるのを感じた。
「ありがとう」
が、溢れてくる。
正しい・間違い・良・悪。
そんなことより「ありがとう」。
夫は言う。
苦手なことなんだな
いままで、大変だっただろー
よくやってきてくれたなー
苦手なことを、ずっとやってくれてたんだな
気づかなかったよ、ごめんな
ママが笑顔でいてくれることが一番なんだよ。
娘たちは言う。
ママはポンコツなところが沢山あるけれど、
ママはたくさんの人を幸せにする笑顔が素敵。
失敗って誰でもする。
だけど、それを素直に認めて、謝って、ありがとうって言えるひとは、そんなにいない。
子どもである私たちにも、そうしてる。
ありがたいな。
しくじりママのもとで育ち、
たくさんの涙を流した娘たちが今、
ありがたい愛のフィードバックをくれる。
夫や彼女たちとの時間が、私を大人にしてくれている。
感謝しかない。
ひとは誰もが未熟さを持っている。
その未熟さを、どれだけ愛の眼差しで見つめることができるのか。
厳しい眼差しを、愛の眼差しに変えていく。
意志をもって。
人を癒し、治すのは、「愛」であると。
わたしは、そう思っています。
そんな、お手伝いをしています。